これ、観て来ました。 観に行く前から懸念していたのは、ただの"マーガレット・サッチャーものまねshow"になっていなければいいな、ということ。 そんなものをわざわざ映画館で観るっていうのもな...なんて思いつつ。 シネマ情報番組か何かでメリル・ストリープのインタヴューも見たのだけれど、メリルが 「私はとにかくその人物になりきって、その人物として生きたいの。 演じるのではなく、生きるの。 メリル・ストリープという自分の存在は消して。 そのためにはマーガレット・サッチャーの過去の膨大なニュース映像を見て、話し方やアクセント、立ち姿から歩き方、しぐさまですべて自分の中に叩き込んだわ」 みたいなことを語っていたので、尚更、ものまねshowになってないかな?と危惧していたのだけれど。 観てみて。 うん、ものまねshowではなかった。 では、そこに映し出された姿はマーガレット・サッチャーそのものだったかと言うと、またそうではなく。 やはり、メリル・ストリープだったと思う。 ま、そもそもね、実際のマギーとメリルは、全然似ていない。 メリルは頬骨が高くて鷲鼻だし。 サッチャーの首相在任期間って、私はあまり物心ついていなくて、まだ新聞の国際面もきちんと読めないような年だったけれど、それでもマーガレット・サッチャーの顔は認識できる。 メリルとは全然違う。 それもあって、少し意地悪で斜から見た視線かもしれないけれど、私はあくまでも"マーガレット・サッチャーを熱演しているメリル・ストリープ"を見た、という印象だった。 あるいは"メリル・ストリープが作り出したもう一人のマーガレット・サッチャー"を。 映画の本筋はどうかと言うと、どうもあっさり描かれ過ぎと言うか、あぁ、これはどう考えても、マギーが政治という表舞台でやっていたことや果たした役割には重きを置かず、あくまでも一人の女としてのマギーに光を当てたいんだな、という感じだった。 サッチャーが政権を執っていた時代というのは、大変な激動の時代だったと思う。 にも関わらず、炭鉱閉鎖にしろ、ストにしろ、IRAによるテロにしろ、そしてフォークランド紛争にしろ、あっさり処理し過ぎている。 まったく、それらの事件や事象に踏み込んで、具体的にリアルに描こうというアプローチは感じられなかった。 国会における演説なり答弁なりで、男議員をものともせず、舌鋒鋭くぶいぶい言わせちゃっているマーガレット・サッチャーの姿もほとんどなかった。 つまりはフィリダ・ロイド監督の狙いはそういうところにはない、ということなのだろう。 あくまでも、老いと認知症の中にある現在のマギーと、彼女の回想によって、彼女の自分の生き方に対する自省と孤独と夫への思いに焦点を当てたかったのだろう、と。 それもそれで、まぁ、いいとは思う。 英国では、この映画に対して結構批判的な議論が多かったようだけれど。 未だ存命中の元首相の認知症に苦しむ弱々しい姿ばかりを大きく映すのは、彼女の尊厳を軽んじているとか、首相としての彼女はあんなにヒステリックで意地の悪いばかりの女ではなかったとか。 サッチャーの政策に関しては、今でも英国内では賛否両論らしいけれど、それでも英国民としては、元首相に敬意を表しての議論だと思う。 そして、英国民ではない日本人の私でさえも、政治家としてのサッチャーの描き方、一個人としてのサッチャーの描き方には首を傾げる部分がないではなかった。 昔、テレビのニュースで見た彼女の姿やスピーチから受けた印象と映画の中のそれとでは、やはりどこか乖離している気がしたのだ。 もう少し、政治家としてにこやかに笑って(営業用スマイルであろうと)手を振っている姿やウィットのある受け答えをしている姿を見たような記憶がうっすらと残っている。 そしてあれだけの長期政権を維持し、良かれ悪しかれ自分の信じる強硬政策を貫いたからには、あんなにぽやっとした顔の凡庸な女性(特に若かりし日を演じたアレクサンドラ・ローチ)ではなく、もっと聡明で切れ者であったはずなのだ。 いや、でも、それすらも監督の狙いだったのかもしれない。 あくまでもマギーの内面を描きたいと。 そしてこれは伝記映画やノンフィクションではなくフィクションであり、ややファンタジーでもあると。 とまぁ、なんのかんの書いたけれど、メリルの演技が凄いのは言うまでもない。 と言うか、あそこまで"老け"に徹し切れる役者根性が凄い。 『J.エドガー』で老け切れなかったレオに「メリルをお手本にしてみるといいかもよ」ってこっそり耳打ちしたくなる(余計なお世話だ、私)。 メリルは老けメイクだけでなく、声の出し方、話し方、歩き方や所作のすべて、まさに老いたマギーだった。 オスカー受賞、おめでとう。 映画のラストシーンは、ちょっと良かった。 あそこはフィリダ監督、センスいいな、と思った。 光のある、やわらかなラストだった。 バッハの平均律クラヴィーアが流れていた。何番だったかな、Cメジャーだったけれど。 そうそう、クラシックを中心にした音楽がなかなか良かった。 えーとね、特にオペラ『NORMA』のアリア、"CASTA DIVA"(清らかな女神)が流れるところ、素晴らしく良かった。 皮肉にも?または狙い澄まして?サッチャーが退任を決意して薔薇が敷かれた花道を歩くシーンだった。 マリア・カラスが歌っているヴァージョンだった。 あの伝説の、気の強いオペラ界の女帝マリア・カラスが歌っているものを"鉄の女サッチャー"の映像に被せる辺り、心得ているなぁ、と思った。 フィリダ・ロイド監督はもともと舞台演出の人なのですよね。 ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで仕事したこともある経歴の。 あぁ、あと、『王様と私』の"Shall We Dance?"もかわいらしく使われていたっけ。 うーん、なんというのか、"散文"という印象の映画だった。 ポイントやターゲットが絞り切れないような。 悪くはないのだけれど。 でもその証か、映画館では私の右横に座っていたおば様も左横に座っていたおば様も、ぐうぐういびきと寝息をたてて寝ておられた。 冗長であったようです。 あ、この映画の重要な部分である、サッチャーの夫・デニスを演じた役者さんは良かった。 若かりし日のデニスを演じたハリー・ロイドも、ほぼ出ずっぱりだった老いたデニス・ジム・ブロードベントも。 脚本や構成よりも役者の力によるところが大きい映画だったかな。 どうでもいいことだけれど、どうして邦題は『鉄の女の涙』なんでしょう? 『鉄の女』だけでいいではないかしらん。 そんなに映画に「泣き」が求められているのでしょうか、日本では。
by bongsenxanh
| 2012-04-15 00:21
| 映画
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by bongsenxanh
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