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『Mozart!』 in Grand Theater,Sejong Center for the Performing Arts
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さて、何から書き始めようか考えあぐねていた今回の韓国版『Mozart!』
韓国でこの作品が再演されることがあるなら必ず観よう、と思ったのが確か2年前のことだと思う。
それまで私の中で"韓国で観劇をする"というオプションはまるでなかった。
周りのシアターゴーアーさん達がこぞって韓国に通うようになって、「韓国の俳優さんは凄いよ!日本とは比べものにならないくらい歌えるよ!」と口々に言うのを聞いても、ふ―――ん...でも私には関係ないわ、くらいにしか思っていなかった。
一つには、私がハングル話者でも学習者でもないことが大きいと思う(韓流ドラマにも韓流アイドルにも全く興味がない)。
Broadwayなら、多少なりとも英語で大筋がつかめるのに対して、全く言葉の意味の端緒もつかめないような言語で観劇することは、とにかく疲れるだろうし、おそらくその魅力の半分も味わえないだろう。
そしてもう一つ、Broadwayでoriginalが観られるのに、敢えて韓国でその焼き直しを観ることもなかろう、と思ったこともある。
この上記二つのどちらにも当てはまらなかったのが『Mozart!』だ。
Broadwayでは上演されておらず(何てったってウィーン発ミュージカルだ)、日本でさんざん観倒しているので、話の筋も台詞も歌詞もすべて頭に入っている。
それを日本よりも歌えるキャストで観られるというのだ。観たい。ぜひとも。
その動機が昨夏の『Elisabeth』観劇につながり、そして今回の『Mozart!』につながった。
ただ...一つ、盲点があった。
今回の韓国版『M!』が新演出になっているということを、私は知らずにいたのだ。
先に観た知人から「気に入っていた曲が削られてなくなっていた」という風には聞いていたけれど。
けれど、それはあくまでもマイナー・チェンジくらいのことで、演出が変わったとは思っていなかった。
それが幸だったのか、不幸だったのか―――。



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初回、7月25日夜のキャスト。
主役のヴォルフを演じるパク・ヒョシン(박효신/Park Hyo Shin)さんは、昨夏の『Elisabeth』のトートでも観ている。
それ以来、ずっと心のどこかで気になっている俳優さん(と言うか、歌手)なので、今回のヴォルフも期待していた。
個人的には、ポスターやキャスト表に使われている写真、ヴィジュアル系みたいで...なのだけど。
もっと普通に自然体でヴォルフになっている写真の方がいいな、奇麗な顔しているんだし(だいぶお直ししているから)。

さて、幕開け。
まず、ここから、新演出に驚かされた...と言うより、落胆させられた。
今まで、それが当然だと思っていたウィーンでのモーツァルト(まだ子どもの姿をしているアマデ)の演奏会から続く、ウィーン貴族たちが歌う『奇跡の子』がない。
その代わりに耳慣れない長調の新曲が差し替えられていた(これはウィーン版オリジナルからそうなのか?)。
更に、その後に続くヴァルトシュテッテン男爵夫人が歌う『人は忘れる』は完全にカットされていた。
ある意味、Overtureであった『奇跡の子』を削ったことの意味は大きい。
私はこの曲を主題の提示だと思っていた。クラシックの楽曲では、ソナタ形式や、また協奏曲に見られる、あの主題の提示だ。
冒頭でガツン!とこれを出すことによって、アマデが神童であること、また周囲の熱狂振りを観客に印象づけ、そしてまた2幕の最後、〆でもこの旋律(歌詞は変えて『モーツァルト!モーツァルト!』として歌われる)をアンサンブルが大合唱することにより、ドラマが集束する。
そのドラマの起承転結である"起"がごっそり抜け落ちてしまったことになる。
"起"がないということは、同時にそこからつながるはずの"結"も、宙に浮いてしまうということだ。
また、『人は忘れる』がないことによって、ヴァルトシュテッテン男爵夫人が暗示的に歌う ♪人の記憶は色褪せて 拍手はいつしか遠ざかる 最後に知るわ 残るものは目に見えないものだけ... というフレーズもなくなった。
私はここ、ヴォルフガングの音楽の才能の行方を象徴的に言い当てた良いフレーズだと思っていて、それがなくなったのも非常に残念だった。
新演出の目的の一つには、3時間を越えるこの作品の長さを短縮することもあったようだ。
だが、時間短縮のためだけに楽曲や台詞、シーンを削って、ドラマが機能しなくなったら、それは本末転倒というものではないだろうか。

更に困惑のopeningは続く。
この"神童"シーンで、貴族たちの前でヴァイオリンを弾いていたアマデが、演奏が終わった後、何歩かよろよろと歩いた後で急にぱったりと倒れる(かなりわざとらしい)。
貴族たちはそれには気づかず(?)、幼いナンネール(ここ、子役のナンネールだった。韓国でも今回からの演出だそうだ)が、短いフレーズを歌って父レオポルトに「アボジ!(=お父さん)、ヴォルフが大変よ!」みたいに知らせるのだが...。
このナンネールの子役が、たったそれだけの短いフレーズも正確に音を取れずに歌う音痴で(えぇ、私、子役にも甘くありませんので。かわいいだけじゃ、駄目なんです。だってお金もらってるプロなんだもの)。
今回4回観たので、ナンネールの子役は二人とも観たけれど、どちらの子も歌が下手だった。
あぁ、歌のうまい韓国人でも子役は例外なのね、と思ったり。
そして、ぱったり倒れるアマデの子役もまた、演技が下手だった。
貴族たちの前でヴァイオリンを弾く所作も、よろよろ歩く動作も、そして後で出て来るヴォルフとの絡みの演技も、すべてが拙いという感じだった。
この冒頭で、アマデが"才能の小箱"(私は勝手にそう呼んでいる)を持ち出して来て開いた後、その小箱の前で両手の甲を見せてかざすようなジェスチャーをするのだけれど(ちょうど、医者が手術前にする「オペ開始します」みたいな、あのジェスチャー)、それがこちらが小っ恥ずかしくて見ていられないくらいに、駄目だった。
観た方たちの中にはこの日演じていた子役のクワク・イアン(곽이안/Kwak I An)くんがものすごく演技が巧かった、と書いていらっしゃる方も多いので、何とも言い難いことだけれど、私は彼よりはまだ、もう一人の子役ユン・フェリックス(윤펠릭스/Yun Felix)くんの方がましだと思った(すみません、こんな言い方で)。
フェリックスくんの方がちょっとぽっちゃりころころした見た目だったけれど、少なくともイアンくんみたいなわざとらしさはなかった。
けれど、二人ともアマデの"天才"振りを演じ切るところまでは及んでいなかった。
それを考えると、過去にこの役を演じてきた日本の子役は本当に優秀だったと思う(下手な子もいたけど)。
彼らはアマデが何者であるのか、この作品の中でどんな役割を司っているのかをきちんと理解した上で演じていた。

オープニングから続いて、『赤いコート』...のシーンになるかと思いきや、いきなりヴォルフとアルコ伯爵が賭けに興じているシーンになる。
そう、『赤いコート』のシーンも削除されたのだ。
何てこと...!
つまり、ヴォルフが執着した"貴族のような"赤いコートを父レオポルトが取り上げる、というエピソードは一切なくなったのだ。
私はあれは一種の寓意的なエピソードであり(ヴォルフは富や力や名声、あるいは自己顕示の表れとしてあの赤いコートを手に入れたい)、それを父親であるレオポルトによって奪われることによって、それを手に入れるためには父親からの自立が必須であることを、無意識の内に自覚するのではないか、と思っている。
これって、心理学的に言えば、オイディプス・コンプレックスと重なるものだと思う。
それがなくなるって、どういうことなのだ。
演出家は、きちんとその辺りのことも必然として考えたのか?恣意的にやっちゃったわけではないのか?(偉そうですみませんが、本当に今回の演出家Adrian Osmondには、いろいろ訊きたいこと、言いたいことがある)
結果、ヴォルフは、今回の演出ではず―――っと、あの金色の刺繍で縫い取りされた派手な赤いコートを着ていることになる。
そして、書き忘れていたけれど、古典派の音楽家が被っていた白いカツラをずっと被っている。
以前の演出の、あのドレッドヘアみたいな髪型ではない。
1幕を観ている間、私はずっとその姿に違和感を感じていて、「いつ脱ぐんだ、あのカツラとコート...」と思っていた(これはまた後で語る)。
そもそもあの白カツラは、当時の音楽家にとっては正装であって、モーツァルトくらいの身分の者が自宅にいる時とか、友人とちゃらちゃら遊び歩く時には脱いでいたはずなのだ(貴族の前の演奏会とか、オフィシャルな場ではマスト)。

と、ここまでがまず1幕が開いて真っ先にがんがん繰り出されてきた、演出上の私の困惑ポイントだった。
で、その新演出の中で登場したパク・ヒョシンさんのヴォルフは...可愛かった。新鮮だった。
前述した白いカツラも、違和感がありながらも何だかヒョシンさんの味で被りこなしてしまっていて、無邪気で純粋な雰囲気の漂う、天真爛漫なヴォルフだった。
あぁ、トートの時とは明らかに違う。
キャラクターが違うのだから、当然だけれど、何か一皮剥けたような、新たな役柄を掴んで自分のものにしたかのようなヒョシンさんのヴォルフだ。
そして登場して割とすぐに歌い出す『僕こそ音楽/나는 나는 음악』
このシーンも、今回の新演出の被害を被って(えぇ、もう、被害と言ってしまいますよ!)、冒頭、大きな鏡が上方から降りてくる。
その鏡をヴォルフが覗き込んで、コートの襟を正してポーズを決めたりすると、その鏡にアマデの姿が映り込み、鏡を回転させるとヴォルフと対称になる格好でアマデが出て来る...という演出になっていた。
私はこの鏡演出も、ベタ過ぎてあまり好きではなかったけれど...。
鏡って、演劇ではよく使われる小物だし、巧く使えば非常に効果的なものになるけれど、下手にやると、陳腐になるのだ。
ともあれ、その鏡から出て来たアマデも舞台に乗っている状態で『僕こそ音楽』は歌われるのだけれど、残念ながらヒョシンさんのヴォルフは、あまりアマデには構わずに"一人"でそこにあって歌っているヴォルフだった。
これは韓国版の演出のせいもあろうかと思う。
日本版の小池演出では、このナンバーを歌う時に、ヴォルフとアマデが、くっついたり離れたりじゃれ合ったりしながら、絡む。
ヴォルフがアマデから小箱(羽ペンだったかな?)を取り上げてひょいひょいジャンプしてからかってみたり、またはヴォルフがアマデの肩を抱いて、二人ともが同じ方向を見据えて ♪このままの僕をー 愛してほーしい~ と歌ったりする。
ここで、この時点ではまだヴォルフ(実体のモーツァルト)とアマデ(才能)が一体であることが明確に示されるのだ。
私はこのシーンがとにかく好きでたまらないのだけれど。
韓国版には、そういったヴォルフとアマデの二者による相乗効果のようなものは、なかった。
ヒョシンさんは、とにかく才能に溢れ、音楽の神様に愛されている喜びのようなものを、全身に漂わせながら、体中からはち切れんばかりの魅力を放ちながら歌う。
それは彼が体の周りや頭の周りにめぐらせて泳がせる彼の手の表情からも伝わってきた。
ただ、日本版のこのナンバーをあまりにも聴き込んでいた私の耳には、ややヴィブラートがかかり過ぎているようにも思えた。
ヒョシンさん自身の低い持ち声や歌い方のクセなどもあるのだろう。
そう、低い声の人が発声する高音だな、というのも強く感じた歌声だった。
サビの♪나는 나 나 음악(ナヌン、ナ、ナヌ マァ~ッ/僕は 僕こそは 音楽~!)のフレーズは、もう少しヴィヴラートを抑えて、スタッカートを正確にシャープに入れて、ソフトに流さずに歌ってほしいな、とちらっと思ったりもした。
けれどそれもまた、彼の味であり魅力だろう。
あぁ、ソウルまで飛んで来て、このナンバーで彼の歌声を聴けて良かった、と思った瞬間だった。

『僕こそ音楽』までだけで長くなってしまったので、次に続く。
by bongsenxanh | 2014-08-04 02:48 | 観劇レビュ 韓国 | Comments(0)


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