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『モーツァルト!』 再々演 帝国劇場 ~子供であるということ~
『モーツァルト!』 再々演 帝国劇場 ~子供であるということ~_a0054163_034183.jpg  どんな子供もある意味で天才であり、
  いかなる天才もある意味において子供である

アルトゥル・ショーペンハウアー

この作品のプログラムの扉に(webページの冒頭にも)掲げられている言葉だ。今回の再々演ほど、この言葉を強く感じたことはなかった。(蛇足ながら、ショーペンハウアーはドイツの哲学者。モーツァルトの死の3年前に生まれ、モーツァルトとの直接の関わりはない。ショーペンハウアーlove♥ だったのはワーグナー)


今回、なんとか時間の都合をつけて東して観に行った『モーツァルト!』。諸々の事情で開演時間ぎりぎりになってしまい、霞ヶ関でタクシーを拾って(通常ならパンプスでもカツカツ歩いちゃう距離だ)、「近くてごめんなさい、帝劇まで!!」と飛ばしたものの...やはり間に合わなかった。開演に間に合わないのは仕方がない。けれど、この作品で主役・ヴォルフガングが幕開け後すぐにソロで歌う"僕こそ音楽(ミュージック)"を聴き逃したら、この作品を観に来た意味は半減する。チケットをもぎってもらい、コートを脱ぐ手ももどかしく、劇場内へ入ると―――。



そこに展開していたのは、"神童"モーツァルトのお披露目である幕開けのアンサンブルシーンだった。良かった、なんとか間に合った。(ストーリー等については再演の際に書いたものを)
それにしても、帝劇、舞台が遠い。私の席が1階席後方だったとは言え。他の劇場に比べて、かなりだだっ広い。そして、音の響きが悪い。この劇場、決して私の好きな劇場ではない。客席数、約1900もあるのだ。ミュージカル作品を演る&観るには1200前後が理想だと思う。

ともあれ、その遠い舞台に目を凝らし(もちろん、オペラグラスも使う)、主役ヴォルフ=モーツァルトを演じるヨシオ(注:井上芳雄くんです。私の中では親愛の情を込めて、ヨシオ)の姿を追う。ヨシオは――声が、ガラついていた。枯れていた。11月19日に幕が開いたこの公演を、もう1ヶ月演じ続けて来ているのだから、無理もないのかもしれない。けれど、それでも尚、前に向かって伸びる歌声。そしてそれ以上に感じたのは全身から漂う落ち着き、余裕。そう、ヨシオは2年前の再演の時とは明らかに違っていた。貫禄すら感じさせる。それは、ずっと楽しみにしていて、心の底から待ちわびていた彼が歌う"僕こそ音楽(ミュージック)"を耳にして、ますます強く抱いた実感だった。声が、違う。ヨシオの歌声は、もう以前のような若く、"少年"を思わせるものではなく、"大人の男"の"太く芯のある声"になっていた。そして歌い方も。はちきれんばかりに、若さゆえの傲慢をもにじませて「僕こそミュージック!!」と歌っていた以前に比べると、とてもソフトでおとなしくなっていたと思う。心の昂ぶりを押さえられないかのように、スタッカート気味に歌っていた箇所すら、今回はスラーでつないで歌っていた。それをカバーするように、敢えて荒っぽく歌っていた部分もあったけれど、それでも落ち着いたな、と感じさせられた。今回のプログラム(ちらっと見ただけで買わなかった)に載っていた対談で、ヨシオ自身が「以前はそれこそ「僕こそミュージカル!」くらいの気持ちで歌っていたけれど、今回は"僕こそミュージック"をどんな気持ちで歌ったらいいのかわからなくなっていて...」と語っていた様に、演じる彼本人が成長と共に周りが見えてきて、尚且つ自分のことも客観視出来るようになって、若さと勢いだけではなくなってきたということの証なのだと思う。
と同時に、「あ、もうヨシオはヴォルフではなくなりつつあるのかもしれない」と思った。妙な言い方かもしれないけれど。ある意味、彼はもう"少年性"を失ったのかもしれない...つまり、ヴォルフでいられるのはこれが最後なのかもしれない、と。以前は1幕でとても無邪気で天真爛漫な感じがしたのだけれど、それも今回は落ち着きの影に隠れていた気がした。ヨシオが成長して、少年から大人への過渡期を通り過ぎて(または通り過ぎつつあり)、"子供"ではなくなるのと同時に、モーツァルトの"子供=天才"からは離れた、遠ざかった、ということになるのかもしれない、と。皮肉なことだけれど、役者として、あるいは一人の人間として、成熟すればする程、このヴォルフガングという役からは(あくまでもこのヴォルフガング=フィクションのモーツァルト役。実在のモーツァルトとはまた別物)遠ざかるのではないか、と思った。前述のプログラムの中で、演出の小池修一郎氏が「初演の時の、主役二人(ヨシオと中川晃教くん)の初々しさ、下手なのだけれど、経験のなさと若さゆえの怖いもの知らずのパワーみたいなものが良かったんだ」とお酒の席でポロッと漏らしたことがあったという様なことが書かれていたけれど(すみません、うろ覚え)、まさにそういうことなのだろうと思う。素材の、原石のままの粗削りの輝き。それがこのヴォルフという役には必要で、洗練されたり、演技に熟達することで、どんどん役からは遠くなってしまうというパラドクスを孕んでいるのだと。演技が達者になって"子供=天才"を演じることは可能かもしれない。けれど、演じられたそれはやはり、天然のそれとは似て非なるものだ。ヨシオは、本当に上手くなったし(文句なしに、本当に上手くなった)、脂が乗ってきたとさえ言えるかもしれない。が、それゆえにこの役からはもう卒業する時期になってきたのかもしれないな...と。きっと、本人もそのことに無自覚ではないだろうと思う。ショーペンハウアーの言葉を強く意識したのは、こういうことだ。
その、上手くなったヨシオ。特に怖いくらいだったのは、父レオポルトを亡くした後に、ヴォルフが錯乱するシーン。「急げ、急げ、次のオペラを...!」と歌うシーン。いや、歌うというよりレチタティーヴォを通り越してほとんど台詞になっていた。更にその後でアマデ(=モーツァルトの音楽の才能。子供の姿をしている)に向かって「悪魔!おまえは悪魔だ!おまえが悪いー!悪魔ぁ!悪魔ぁぁぁ!!」と狂乱さながらに叫ぶところは、凄絶だった。ぞくぞくした。怖かった。本当に芝居が上手くなったな、と。上手い、という言葉では足りない。何かが降りている感じだった。今回のヨシオは、歌よりもむしろ芝居だ、という雰囲気だった。歌を売り物にしていない(芸大出身にも関わらず)、もっと役としての在り方そのもので勝負している感じ、とでも言うのだろうか。
更に言うと、そのヨシオは苦しんで苦しんで苦しみ抜いて――と言うより、アマデ(=才能)によって苦しまされているヴォルフで、あぁ、ヨシオはやはり凡才(あくまでもこの役として)なのだなぁ、と感じさせられた。どこまでもアマデはヴォルフの外部にあって、ヨシオ=ヴォルフは才能の容れ物、器に過ぎないのだ。凡人なのに、それに見合わない才能がくっついてしまったばかりに苦しみ抜かなければならないのだ、と。これに比して、もう一人のヴォルフ、アッキー(中川くん)は、天然の天才。アマデは外なるものではなく、内在している。これについてはまた、別で書くけれど。昼夜通しで観ただけに、この二人の好対照振りが際立って感じられた。

この作品を少し離れた部分で、私のモーツァルト観は、もともとモーツァルトの作品が熱烈に好きなわけではないこともあり(弾きにくいし、ころころ流れてしまうし、長調ばかりだし)、小林秀雄氏が『モォツァルト』の中で「彼の統一のない殆ど愚劣とも評したい生涯」と断じたものにかなり近く、「あぁ、阿呆だな~」というくらいのものなのだけれど(モーツァルティアンの皆様、すみません)、それでも尚、この作品の子供っぽくて人間臭くてどうしようもなくて、そして自分の存在と才能に苦悩しているヴォルフガングには惹きつけられてしまう。不思議な作品だと思う。

ヨシオについて書いていただけでかなり長くなってしまったので、その他の役者さんについては、また別項で。

Thu Matinee 20.Dec 2007 帝国劇場 1階S列センターブロック
by bongsenxanh | 2007-12-25 00:57 | 観劇レビュ 国内etc.


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