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『ノートルダムの鐘』再び。今回は2階席後方から。
『ノートルダムの鐘』再び。今回は2階席後方から。_a0054163_049385.jpg
またか、前回からタームが短か過ぎないか、と言われそうですが、昨日また観に行って来ました。
キャストもメインどころは前回と全く同じ。
全然キャストを狙ってチケット取っていないのに(そもそもチケットを予約した時点では、いつ誰が出るかなんて予測不可能)、しかも京都では各回毎にカジモドを2人で交代で演じているのに、ぴたりと狙い澄ました様に飯田達郎カジモドを引き当てている私、きっと舞台の神様が背後についていてくれるのでしょう(笑)
というわけで、

カジモド=飯田 達郎  エスメラルダ=岡村 美南  フロロー=芝 清道

といったキャストですね。

東京でも、約2週間前に京都で観た時にも、1階席の舞台にじり寄り席に座ったのですが、今回は2階席後方のC席、センターです。
「同じ作品を出来れば3回観てほしい、1回は1階席前方で、1回は1階席後方で、1回は2階席で。そうすると、同じ作品でも違った角度・違った視点で観られるよ」と教えて下さったのはかつて四季の『キャッツ』でオールドデュトロノミーを演じていた北川潤さんで、その頃私はまだ子どもだったので「そんなに何回も観られないよ、お金もないし」と思っていたけれど、でもその言葉はしっかり覚えていて、今きちんとその意味が実感出来ているのは有難いなぁ…と思います。




さて、前回、前々回(東京)と、図らずも1階席のほぼ1列目、2列目という良席の様に見えて実はあまり有難くない席から観たのと、今回のC席=2階後方席センターから観たのと比べると、それはもちろん1階席前方の方が役者さんが近くて迫力があるのは確かなのですが。
ただ、2階席センターはやはり舞台全体の動きがよく掴めるのと、それゆえに物語の流れや作品全体の雰囲気が伝わりやすかった。
あまりに舞台が近過ぎるとね、細部に囚われ過ぎてしまうので。
ただ、2階席に座る場合はもちろん、オペラグラス必携です。
そして。
1幕のカジモドの聴かせるソロ・ナンバー、『陽ざしの中へ』(Out There)のシーンで、飯田カジモドは終始しっかり2階席を見上げる目線で、きらきらした笑顔で歌ってくれるので、2階席センターから観ていると、オペラグラス越しにめっちゃ目が合っている…!という錯覚を味わえます(笑)
いや、本当、飯田カジモド、ものすごい笑顔で、本当に2階席ガン見で歌い上げるのですよ!
それがものすごくチャーミングで愛くるしくて。
ちょっとどきどきしちゃいます。
ただ、京都劇場は残念なことに音の響きがあまり良くなく、とりわけスピーカーの音が籠り気味に聴こえる(これ、すごく残念)のと、2階席が他の劇場に比べて舞台から遠く、しかも傾斜も結構急で足元が狭く、更に前の人の頭が邪魔になる造りなので(後発の劇場なのに、設計が悪いのね)、あまり快適な観劇環境とは言えません。
というわけで2階席後方のC席はあまりお薦めはしません。
京都劇場でベストなのはやはり、定番の「とちり席」と言われる6~8列目センターでしょうね。
ちょっと寄って5列目辺りでもいいかもしれない。でも、それより前はお薦めしません。
それに比べて、閉館してしまった新名古屋ミュージカル劇場のC席は、他の劇場の2階席S席かA席並みの舞台の近さと観やすさで、コスパ抜群だったのですけどね。
閉館が本当に惜しまれます。

何か、頭の中が散らかっていて、ひとつひとつの細部がうまくつながらないのですが。

前回から気になっていた聖歌隊(choir=クワイヤって表記してますね、四季では)の歌う歌詞。
やはり、ミサで歌われるキリエ(Kyrie)やグローリア(Gloria)、それにアニュス・デイ(Agnus Dei)がよく歌われていたなぁ、と。
ラテン語ですね。
聖歌隊だし、そもそも舞台が大聖堂の中であることが多いので、当然なのですが。
アニュス・デイ(神の子羊)って歌っていたのは、カジモドのことを歌っている時だったかなぁ。
あとね、ディエス・イレ(Dies irae)が、とても重要なシーンで効果的に歌われます。
ディエス・イレ『怒りの日』は、モーツァルトのレクイエムを聴いたことのある方ならよくご存じかと思いますが、キリスト教の終末思想における神の怒りですね。
『モーツァルト!』でも、アマデがヴォルフガングを縊り殺そうとするシーンで、実際のモーツァルトのレクイエムのディエス・イレの旋律が使われていましたっけ。
これからご覧になる方は、これらの歌詞も注目(注耳?)してよく聴いてみて下さい。どのシーンで歌われるかも。
私も、次回観劇の時にもう少ししっかり聴いて来ようと思います。

飯田カジモドに話を戻すと、感情表現のひとつひつがより深く、より丁寧になってきている感じで。
表情にも、身のこなしにも、くっと心を掴まれたり、揺さぶられたりします。
自分を塔に閉じ込め、絶対的に"支配"するフロローに育てられたがゆえに、ある種とても純粋で素直で疑うことを知らなくて、でもまた同時に閉塞的な世界しか知らず、広い世界―"みんな"がいる世界―に憧れ、塔を抜け出して一瞬だけの自由を味わい、そして傷つき…その1つ1つの出来事、カジモドの心の折れが、ものすごく繊細にダイレクトに伝わってくる。
飯田カジモドは、演技でこちらの心を鷲掴みにして引きずり込んでくれるカジモドですね。
でも演技だけでなく、もちろん歌唱力も抜群で。
今回聴いて、改めて石丸の幹ちゃんに声色が似ていると思いました。
特に『陽ざしの中へ』を歌っている時に。
このカジモドという役に「絶対的な歌唱力のテノールを」と求めたのは作曲家のアラン・メンケンだったか、それとも作詞をしたスティーブン・シュワルツだったか、ちょっと記憶が定かではないのだけれど、台詞を話す時のしわがれ声とは少しギャップのある高らかなテノールは、きっとカジモドの見た目の醜さと中身の心根の美しさのギャップを表すのに必要なものだったのではないかと思います。
それに十分応える飯田達郎さんの歌声でした。
で、今回もまたもやカジモドがエスメラルダを火刑場から救い出して担ぎ上げて
「サンクチュアリーーーーーー!!!!!」
って叫ぶところで、ぶわぁ…っと涙がこみ上げて来てしまいました。
何なんだろう…パブロフの犬っぽいです。
大聖堂という、信仰的には"サンクチュアリ"とされる場所が、カジモドにとって本当に安息を得られる聖域だったのか、それとも自分を閉じ込める牢屋だったのか、それがまた最終的にエスメラルダを救出し匿うための聖域たり得たのか、逆説的にも取れるだけに切なくて。
それは、カジモドだけでなくフロローに対しても言えることなのだけど。
カーテンコールの最後で、フロローの芝さんに抱きしめられて、頭をくしゃくしゃって撫でられてる姿、可愛かったなぁ。
その後、下手の舞台袖にはけていく時にさり気なく自然に投げキスしていったのも、また。
何か、格好つけてする投げキスじゃなくて、可愛らしい感じのそれでした。それこそ、子どもがするみたいな。

エスメラルダの美南ちゃんは、相変わらず素敵でした。
2週間前に観た時より今回の方が調子良さそうで、伸び伸び演じていて、楽しそうでした。
けれど。
2幕でエスメラルダが、フロローの策略によって処刑される前夜、自分の明日の運命(ジプシーであり、女であるがゆえに、火刑に処せられる。それこそ、魔女裁判の様に)を予期して歌う♪いつか人がみんな賢くなる時が来る~っていう歌詞、切なくて苦し過ぎた。
それは、このシーンだけのことではなく。
過去の長い歴史を振り返って見てもそんな時代はなかったことを私達は知っているし、この先未来を見ても、今現在の状況(自分たちとは異なる者や、マイナリティや弱者を排除しようとする社会)を見ても、そんな時代はないことを私達は知っているから。
それを15世紀のパリに生きるエスメラルダが歌い、現代の私達にも通じてしまうというのはとても皮肉だ。
人間て、そして人間が構成するこの世界って、百年、千年…という時を経ても、本質的には変わらない。
なかなか良い方向へは変化していかない。
それを感じて、苦しくなるシーンだった。

うーん、とっても散文的な感想になってしまいました。
芝さんのフロローは相変わらず気持ち悪くて、しかもネットリ迫って来るところとかパワーアップしている感じで、役的にはブラボーでした。
あの人も、ああなるはずじゃなかったのに、どこをどう間違ったかああなってしまって、悲劇の人です。
で、前回~今回で改めて思ったのは、やはり私はどうにもあの隊長が苦手で苦手で仕方ないということ。
何だかなぁ…そもそも、あのフィーバスという役が、アカンのです。

あ、ところで同じヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム』を原作とするミュージカルは、実はこれ以外にももう1作、フランス発の『ノートルダム・ド・パリ』というものがありまして。
私、そちらも観たことがあるので(韓国でね)、その内そちらとの対比についても書こうと思います。

Wed Matinee Aug.9 2017 京都劇場

by bongsenxanh | 2017-08-10 23:51 | 観劇レビュ 国内etc. | Comments(0)


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