『モーツァルト!』 再々演 帝国劇場 ~天性~
もう少し咀嚼してから…などと言っていたら、見事に年を越してしまい、更にはもう観てから1ヶ月以上も過ぎてしまいました。寝かせ過ぎて醗酵進み過ぎ…なんかヘンな匂いしてると言うか、妙な糸引いてると言うか。今更書くのもためらわれるのですが。自分用の覚え書き程度に。中川晃教くんが演じるヴォルフガングの『モーツァルト!』です。いつものことながら、ご興味のある方だけどうぞ。



アッキーのヴォルフガング。前回の再演で初めて観て、「彼こそヴォルフガング!」と思わされてから、今回の再々演で観るのを楽しみにしていた。対照で語るのもナンセンスな気がするけれど、ヨシオ(井上芳雄くん)のヴォルフガングが"努力型"で作り込まれたものだとすれば、アッキーのヴォルフガングは"才能型"で生まれつきの資質によるもの。そのどちらもが、いい。どちらかを選ぶことは出来ないし、仮に選ぶとすれば、あとはもう好みの問題ということになる。ただ、このヴォルフガングという役の本質(または当初、クリエイティヴ・チームが目指したもの)により近いところにいるのはアッキーであろう...と。
1幕。昼にヨシオのヴォルフガングを観た直後なので、どうしてもその印象が鮮明なだけ、アッキーの姿が目に入ってくるなりすぐ、「あれっ?アッキー、こんなにも小さい?」と思ってしまう。ヨシオが180cmで細身なだけに、どうしてもその後で観ると小さく感じてしまう。アッキーは...あら、身長、公表してないのね?小さいです。高橋由美子ちゃんと並んでも、hiroと並んでも小さく見える。その分、"やんちゃ坊主"とか"小僧"なヴォルフという感じがした。せっかく声質が良くて歌がうまいのだから、もっと背があってすらっとしていれば、さぞかし舞台栄えして格好良く見えるだろうな、惜しいな、と思ってしまう。体型は誰にも選べないものだから仕方がないけれど。そして、歌。1幕始まってすぐのソロ・ナンバー"僕こそ音楽(ミュージック)"。故意にそうしているのだろうけれど...エキセントリックに過ぎる印象だった。再演の時はここまでではなかった記憶があるのだけれど、「ヒッ」とか「ァッ」とか「ウッ」とか、喘ぎとも嘔吐きともつかないような息の入った声(シャウトまでではない)を多用して歌っていて、首を傾げた。あれ...必要だったんだろうか。若さや無鉄砲さを出すためのものだったと思うし、それは一面成功していて(観客に違和感を抱かせたのだから)、反面、失敗だったようにも思える。そうでなくても、歌詞をメロディに乗せずに、口元だけで囁くように、歌詞をブツ切りにして歌っていて、なんだかもったいない歌い方をするなぁ...と感じさせられた。ヴォルフガングの型にはまり切らない異端振りや奔放さを表現したかったのかもしれないが、このナンバーは真っ直ぐ前に声を飛ばして伸びやかに歌ってこそ、メロディラインの良さが出るナンバーだろう。少し、アプローチの仕方を失敗している気がした。ナンバーの終りのフェイクもやり過ぎて本来の良さを邪魔しているように思えた。
1幕前半は、総じてそんな"やり過ぎのエキセントリックさ"が目について、食傷気味だった。アッキーも、初演から5年が経って、もう"少年"のまま、等身大のまま、ではいられなくなったということなのかもしれない。自分なりの"若く幼く無鉄砲なヴォルフガング"を模索して作り上げた結果がああいうエキセントリックさになって表れたのか、と。1幕途中まで、切れ目の入ったぼろぼろジーンズではなく、杢グレーのスウェットパンツを穿いていたのも気になった。再演までは普通にぼろぼろジーンズを穿いていたし、ヨシオは今回の再々演でもぼろぼろジーンズのままだったけれど。誰のアイディアかは知らないけれど、あのスウェットパンツは全然洒落て見えなくて、ダサ過ぎていただけなかった。最先端の尖がってるファッションを競うヴォルフガングを印象付けるものにはなっていなかった。ただだらしなくて、小汚いだけの男の子、に見えてしまった。少なくとも私には。
なのだけれど。1幕後半から、俄然、アッキーのヴォルフガングは輝き出す。父に庇護され、制御されていた少年から、その殻を突き破って青年に脱皮していくその姿の鮮やかさ。その姿が際立っていたのは、例えばヴァルトシュテッテン男爵夫人にウィーンへ出ることを勧められ、その気になったにも関わらず、父レオポルトにそれを反対され、阻まれるシーン。ウィーンへ行こうと手を引っ張るアマデ(モーツァルトの才能の象徴)を押し留め
♪時が来たら僕は行くよ! ここからー 出て行くぞ!!
と歌うフレーズであったり。
更に、1幕のラストより少し前のシーン、ザルツブルク大司教であるコロレドとの対立・訣別のシーンで
♪誰の奴隷でもー、ないッ 僕はーウィーンに~ 残るーーー!!
と歌うフレーズであったり。
特にコロレドとの対決シーンでは、Aw!とかYee!とかいう短めのシャウトをブレスごと、フレーズごとに挿入して歌っていたけれど、それが前述の喘ぎとはまったく逆で、かちりとパズルのピースが填まるかのように、見事に機能して、きたきたきた...と二の腕がざわざわして嬉しくなってしまうような歌いっぷりとヴォルフとしての存在振りだった。あの、現実社会にうまく適合出来ない逸脱振り、爆発振りは、まさにヴォルフガングの真髄だろう。コロレドとの対決シーンでは、アッキーのヴォルフらしからぬ冷静さで、コロレドの手を取って、その手の甲にすぅっと口づけて
♪権力者の 汚い手...
と歌ってみせたりもしていて、紙一重と言うか、ぎらりと光るナイフのような危うさとある種の底知れなさを感じさせた。アッキーは、もしかしたら、まだ本人さえも気づいていない小箱だったり引き出しだったりを、その奥底に沢山隠し持っているのかもしれない。
2幕は、"少年ぽさ"を出そうとしていた1幕より、より自然で、よりアッキーの良さが何も加工されないまま出ていて良かった。凄かった。彼には、「こんな風に演じよう」という意図や、計算や、小手先の技は要らない気がする。台詞が聞き取れるように明瞭に発話する、などの基本技術は必要だとしても。アッキーは、そのままでヴォルフ。存在からして既にヴォルフ。それを随所で感じた。2幕の半ばでヴォルフと父レオポルトが決定的に訣別するシーンがある。ヴォルフガングの、生きている時代よりもずっと先を駆けていってしまう才能を理解しきれない父は、息子を見限ってしまう(音楽の才能以外にも、生活態度やら放蕩ぶりやら、いろいろ要因はあったけれど)。見限られた息子は歌う。
♪パパがなぜ去ったのか 僕にはわからない
 僕は他の人と同じにはなれない 本当の自分を殺せはしない~~~!!

そうだろうと思う。アッキーは、確実に他の凡百の人々と同じにはなれない。ここが、ヨシオが演じるヴォルフとは決定的に違うところだと思う。ヨシオももちろん、同じ歌詞を同じメロディで歌う。けれど、ふと、思ったのだ。ヨシオは、やろうとすればやれるだろう、他の人と同じように。彼は小器用だし、そつなく何でもこなせる。優等生だ。それはもちろん、いいことだし、彼の美点だ。が、一方で、ヴォルフというこの役からすればきれい過ぎるきらいもあるだろう。アッキーは、違う。本当に出来ないだろう、他の人と同じには。彼は彼だ。絶対的に彼という唯一の存在だ。それを、このフレーズを聴いていて、強く強く感じた。そして、そんなアッキーのヴォルフを姉の様に、心の底から愛しく感じた。それこそナンネールの心境だ。だからか...と思ったのだが、高橋由美子ちゃんのナンネール、ヨシオの時とアッキーの時とでは愛し方が違うのだ。格段に、アッキーの方を可愛がっている(笑) それも、わかる。アッキーのヴォルフは危なっかしくて放っておけないのだ。やんちゃ坊主で、目を離すとどうかなってしまいそうで。ヨシオは、その点どうしても育ちの良さが出てしまうと言うか、立ち姿や所作もきれいだったりして優等生の匂いを発するのか、放っておいてもまぁなんとなく大丈夫だろう、自分でそこそこなんとかやっていくだろう...という気がしてしまうのだ。同じ役、同じ台詞を言っているのに、これだけキャラが違って見えるというのも面白いし、演じる役者の側から見れば、それだけ自分の素が出てしまうということで怖いことでもあるだろう。ナンネールの由美子ちゃんに限らず、父親レオポルトを演じる市村さんも、アッキーのヴォルフを相手にしている時はおふざけ演技はいっさいなし、真剣勝負の熱い演技で押しまくっている。ヨシオの時にはコミカルな演技でちょこちょこ笑いを取ろうとするのとはかなり違う。最も大違い!と思ったのはhiroのコンスタンツェだった。昼のヨシオのヴォルフ相手の時にはな~んにも感情のこもっていない演技でダメダメだったのに(演技経験がなくて、素人同然のせいもあるけれど)、アッキーのヴォルフ相手の時にはまるで違う!もう、目から、体全体からラブラブオーラが出ている…というくらいにヴォルフ好き好き!のコンスタンツェだった。ヴォルフを見つめる目がきらきらしていて、隙あらばふらふら寄って行っちゃいそうなんだもの。なんなの、この露骨な違いは...。ヴォルフとコンスタンツェが決定的に別れるシーンでは、ヴォルフから「(作曲の邪魔になるから)帰れ!!」と言われて(ここ、アッキーは本気で言っている。コンスタンツェに申し訳ない、とはこれっぽっちも思っていない。対してヨシオはやや罪悪感や遠慮が入る)、本当に肩を震わせて、泣きながら、声を詰まらせて歌っていたくらい。hiroサン、そこまで好きですか、アッキーのヴォルフ...?わからないでもないけれど。もっとヨシオのヴォルフも愛してあげようよ...と思ったり。いや、いいけど。その分、私がヨシオに愛情注ぐから(え、いらない?) この辺りも、やはりアッキーが"天然"で、ヴォルフだからだろう。これは余談だけれど、私が密かに期待していた"お姫さま抱っこ"が、今回も復活しなかった。ヴォルフがコンスタンツェをお姫さま抱っこしてベッドまで連れて行く...というシーンがあったのだ、初演の時には。それが再演から削除されてしまって。乙女としてはあのシーンでくらり...としていただけに、なくなってしまったのはやはり残念でならない。再演のコンスタンツェ・大塚ちひろちゃんはぽっちゃりしていたから、それで抱き上げられないのかな?と勝手に想像していたのだけれど、痩せているhiroでもなし、ということは細身のヨシオと小柄なアッキーの負担を考えて、のことなのかもしれない。あぁ、でも、乙女のツボだったのに...よよ。
この回でアマデを演じていた子役は田澤有里朱ちゃん。昼の回に観た子役よりずっと良かった。アッキーとの相性を考えてか、小柄な子で。息が合っていたのか、アッキーと有里朱アマデはつながっている、一体の感じがして良かった。アマデがヴォルフの中に内在している。アッキーは、アマデのことを「お前が家族を引き裂いた!お前が悪い!」と断罪しながらも、そして苦しめられながらも、同時にものすごくその自分の才能を愛している。ここもヨシオのヴォルフと違うところだと思う。ヨシオのヴォルフは、常に才能が外側にある感じ。アッキーは、才能が自分の中にある。コンスタンツェが別れのシーンで「あなたが愛しているのは 自分の才能だけ」と歌うけれど、それはひどく正しい。ヴォルフ=アッキーがいくらそれを否定して見せようとも、突き詰めていけばそれは揺るぎ様のない事実なのだ。妻よりも姉よりも父よりも、やはりヴォルフガングは自分の才能を何より愛していただろう。だからこそ、アマデとは離れられないし、切り離しても考えられない。そして、それだから尚更、苦悩は深刻で出口のないものとなる。
だからか、そんなヴォルフガングだからか、2幕のラスト近くのシーンで、彼がレクイエムを書いている辺りから泣けて泣けて仕方がなかった。『魔笛』上演後に、MOZART!と大きく書かれた横断幕を、アマデと両端を持って引っ張り合うシーンでも。アマデからなんとか奪い取ったその幕を、ヴォルフがこれ以上大切なものはない...という風に体に巻きつけて、そして愛しそうに胸にかき抱くしぐさにも。アッキーは、つくづくone and onlyのヴォルフガングなのだった。アマデを、そして自分を、屠った後で、アマデよりもヴォルフの方が少し長く息があるのも印象的だ。
アッキーも、ヨシオも、やはりどちらのヴォルフもいい。両者を観ないと、この作品を観たことにはならない気がする。個人的に好きなのは、伸びやかで爽やか好青年なヨシオだ。けれど。どうしてだろう。涙をぼろぼろとこぼしてしまうのは、いつも決まってアッキーのヴォルフガングなのだ。

Thu Evening 20.Dec 2007 帝国劇場 1階U列センターブロック

a0054163_1281267.jpgおまけ。初演の時のチラシ。折れ目が入ってしまっていて申し訳ない。アッキーは今とそんなに変わらないけれど、ヨシオはかなり変わった。とてもあどけない顔をしている。初演の時、チラシ撮りは金髪のカツラだったんだ...。
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by bongsenxanh | 2008-01-26 01:31 | 観劇レビュ 国内etc.


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